冬薔薇に捧ぐ 前日譚 「あれ、熊野?」 俺が残業を終えて駅までの道をのんびり帰っていたときだった。御苦労な事に遅くまで開いている花屋の店先で、その無駄にでかい体をさらにコートで膨らませた男がのっそりと立っていた。熊野はふりかえって俺を見つけると、なぜかものすごく疲れたような顔をしてくれた。イケメンに出会ったことがそんなにも不満か、贅沢だなお前。 「国分か……」 「おいおい熊さん、蜂蜜に飽きたからって花から直接蜜を吸おうってか? それはあまり効率よくないぜ」 熊野は肩をすくめて俺の言葉を流すそぶりを見せた。 「今日はお前と遊んでやれるだけの元気はないんだ、悪いな」 「それはいいけど、なんでお前が花屋なんかをうろちょろしてるのかってことくらいは解説してくれないと睡眠に支障が出るからな、そこはきっちりフォローしてくれよ」 熊野はお洒落とか風流とか粋なことには全く縁がない。そんな男だから当然女も寄りつかない(俺とは違って)だから花なんてのは熊とニンジンくらい遠い存在で、たぶんチューリップと薔薇の違いすらわからないのではないかと思う。 「先日の旅行で、事故が起きてな」 彼はぼそりと言った。 「事故? マジで?」 俺は一瞬でここ数日の事故のニュースを頭に巡らせたが、特にそれらしいものは想起できなかった。 「どんな?」 熊野は首を振った。 「すまない、今はまだ言えない。状況的にも、気分的にも」 「そう、か」 しかし花屋の前で事故と言われたら、解説されずとも最悪の状況が起きたことを意味していた。 「大変だな」 「ああ」 「元気出せよな」 「どーも」 そして案の定、白い薔薇を手に取った熊野の頭を1回どついた。 「あのなあ! 死人に捧げる花にそれはないだろ! ちゃんと店員さんと相談して買いなさい!」 「え? これはなんか普通に白い花だし問題ないだろう」 「お前は白黒の生き物なら全部パンダだって言い張るのかよ? シマウマはパンダじゃねえぞ」 その後も蘭だのスイートピーだのを手に取ろうとする熊の襟首を引っ張り、菊やカーネーションなどの無難そうな種類をまとめたものを店員さんに作ってもらった。太い両腕の中に抱え込まれた花束は、小さくて壊れそうな飴細工のようで、消えたのだという生命の脆さをそのまま写し取った模型のようだった。 「ありがとう国分。花には色だけでなく形にも意味があるんだな、知らなかった」 「形じゃなくて種類な。お前会社では一応優秀な部類なんだろうけど、ダメところはとことんダメだな」 「うーん、花はどれも一緒に見えてよくわからん」 「誕生花とか花言葉とか知ってるとモテるぜ?」 「なんだそれは」 立春を過ぎても、夜はまだまだ冷える。微かに現れ消える小雪を照らす街燈もまた、街にそびえる光を放つ花のようだ。 「たとえば「アネモネ」は「儚い恋」……これはあまりにもあっけなく散った美少年の物語があって……とか言ったら「えー、ブーン君ギリシャ神話好きなのー? 私もその話好きだけど、一番の推しCPはハデス×ペルセフォネかなー!」とか言ってなんかこう、花1輪から話題が広がり女の子たちとキャッキャウフフして楽しめるわけよ」 「アネモネ……これか?」 「それはキンギョソウだな」 冬は長く、花の季節はまだ遠い。しかし隣を歩く男の腕にはちらつく雪と同じ色の花が抱かれていた。 「冬薔薇に捧ぐ」後日談 メールに書かれていた文字は「ごめん、行かない」の文字だった。自分から「ちょー美味しいトンカツ屋の店を見つけたからお前連れてくからな!拒否はゆるさーん☆」とか誘っておきながら、「行かない」とはどういうことなんだときっちりと抗議のメールを返したのだが、それに返事はなかった。「行けない」でなく「用事が出来た」でもなく、「行かない」とは不可解だった。せっかく定時で上がれた珍しい日を犠牲にして僕は国分のいるアパートへと向かったのだった。 鍵はかかっていなかったから勝手に上がりこんだ。そんなことを気づかうような仲ではない。廊下に散らかった洗濯物と菓子の空き箱を足でどけながら僕は家主を呼んだ。 「国分」 寝室を覗きこんだ。奴はスーツを脱ぎ捨てただけというだらしない恰好で、クレーンゲームで取ったらしいデカい変なぬいぐるみを抱えて転がっていた。 「寝ているのか」 「起きてる」 「それが起きている人間が客を迎える態度か」 その言葉に返事はなかった。奴は起き上がりもせず、目を開けたまま転がっている。その姿はいつも走り回っているか喋っているかしか思い描けない国分と同じ人間には見えなかった。 「……どうしたんだ」 僕とは違い、やつはそこまで真面目な会社員ではない。何かミスをしたとしても僕と飲みながら「また失敗しましたー☆」だの「めっちゃ怒られたー☆」だのヘラヘラしているような奴だ。というか、人生全部をナメ切っている。そんなアイツを、どうやったらここまで静かにさせられるのだろう。むしろそっちの方が気になった。 「どうしたんだ」 マットレスの淵に腰をかけた。奴は動かず、ぬいぐるみを抱えて宙を見つめている。 「なあ」 「早く終われよ」 直後、マットレスが揺れたかと思うと、いきなり頭に柔らかい重量物が叩きつけられた。痛みはないが、首が歪みそうになった。 「ちょっ、待て! なんだいきなり!」 再びぬいぐるみが振り下ろされる。頭をかばい、飛び退る。 「わかってんのか?! 今日はまだ水曜日なんだぞ! いつまでも寝てるわけにはいかないんだ!」 「寝てるのはお前の頭だろ!」 「うるさい! 夢の中の存在のくせに生意気だ! 去れ!」 残念ながら僕の力は国分にはかなわない。組伏せることも反撃することもできず、奴の気が済むまで殴られることしかできなかった。やがて落ちついたのか、国分は力なく座りこんだ。 「そーか……ここまでやっても、ダメなのか」 そして泣きだした。 「国分、お前、まさかクスリに手を出したんじゃないだろうな」 「夢が、終わらないんだ」 マットレスをめくる。注射器や薬の袋らしきものは今のところ見つからない。 「何の」 「薔薇園に悪魔がいて、そいつが人に取り憑いて、人を殺す夢」 ゴミ箱をひっくり返す。飴やチョコの包み紙は大量に出てきたが、注射器や薬の袋らしきものは今のところ見当たらない。 「その少年は苦しそうにしてた。怪我は治してやれたけど、その後も倒れたりとかしてて、心配だった。大丈夫だ、大丈夫だって言ってて、それを信じて……だけど、悪魔が正体を現して、それで……彼は、もう、ダメだった」 ベランダを見る。変な植物は栽培されていない。 「なあ、これが夢じゃないなら、悪魔は本当にいるってことなのか? でもそんなわけないよな。悪魔なんて夢の中の存在で、この世にはいないし、いちゃいけない。俺は信じない。悪魔なんてこの世にはいない! いないんだ!」 ふりかえって国分を見る。国分の目はちゃんと僕の顔を見ていた。 「なぜ25歳の成人男子が、いつまでも悪夢を怖がっているんだ? どうして夢を夢だと思えないんだ?」 「悪夢が、夢じゃないから」 国分は目線を机の上に投げた。血まみれの丸めたティッシュの山の上に、小さな陶器のリングが載っていた。 「悪魔の庭のものなんだ、その指輪と、俺の怪我は」 「ふん」 僕は指輪とティッシュを握ると、窓を開けた。 「捨てればいいだろ、こんなもの」 「勝手なことするなよ!」 国分に襟首を掴まれ、引き倒された。僕はあおむけに倒れ込んでモロに後頭部を強打した。……こいつ、悪魔の手に渡る前に僕が殺してやろうか。 「人が死んでるんだ、その悪魔のせいで」 「お前さあ……」 国分は指輪を握った。 「俺は死んだその子のことを何も知らない。名前も下の名前しか知らない。だけど、いや、だから、これがなくなったら、もう思い出せないかもしれない。悪魔は忘れたいけど、救えなかった彼のことは忘れたくない」 ミシリと、左胸が痛む。いけない、その考えがいけないんだ。この世にあってはならないものは、すぐに消さなければならない。その小さな日常の亀裂が広がらないうちにふさがなくてはならないんだ。 「国分、それはダメだ。捨てるんだ」 「捨てない」 僕は指輪を奪おうとしたが、腹立たしいことに僕より素早い上に背が高く力も強い奴には勝てなかった。 長いこと格闘して疲弊して床に伸びた僕を見下ろし、奴は何かを諦めたように笑った。 「まあ、でも。こんなのなくたって、俺が生きている限り、悪魔も、あの子も、消えないんだろう」 奴はフローリングに指輪を落とした。 「だってこの体には、悪魔が出してきたお菓子も、紅茶も、飴玉も、全部入ってるんだから」 ――ああ、彼もまた その身に異形を宿したのか 左胸の異形の欠片が嗤った気がした。